
寺西家阿倍野長屋は、単なる「古い建物」ではありません。昭和初期の大阪の生活文化を象徴する建築物として、多くの特徴と工夫を持ち、その構造や空間配置から、当時の人々の暮らしぶりが今に伝わります。
外観の特徴
建築物の特徴は入母屋造で伝統的な屋根形式で、昭和初期の建築様式を今に伝えています。屋根は淡路産の桟瓦が使われています。
4戸の長屋の界壁は、床下から天井裏まで壁で仕切られており、防火や遮音の役割をはたしている。そして中央に防火壁が立ち上がっています。当時の防火思想を反映した設計です。
各戸ごとに側面から入る形式で外部は塀と玄関部を設け、独立性を確保。門・前庭を伴う「塀型長屋」として、格式ある佇まいを持っています。
塀型長屋の構成は、落語にでてくるような長屋のイメージとは異なり、戦前の大阪における「豊かな長屋」の一例です。
寺西家阿倍野長屋の外観は、昭和初期の大阪の都市住宅がいかに「豊かな暮らし」を実現していたかを物語っています。防火壁、入母屋造、質の高い建材など、すべての要素が、当時の建築技術と生活文化の高さを示しています。
暮らしの構造
裏庭から外へ出られる90cm程の狭い通路で、大阪の特有の動線です。
各戸の背面側に配置され、自然光と通風を確保し、狭い敷地でも快適な住環境を提供しています。
限られた空間を最大限に活用する建築的工夫により、快適さが確保されています。
汲み取り道
主に汲み取り便所の糞尿の排出に使われました。
これは、1909年(明治42年)の大阪府の「建築取締規則」で建物と建物が隣接する場合、境界線から45cm(1尺5寸)ずつ離して建築することになっていたためである。このことは、建物内に汲み取り通路をつくらなくて良いので、1階のプランの自由度が高くなる。
寺西家阿倍野長屋は当時として先進的な設備を完備していました:
調理やガス風呂の設置
各戸に備えられた設計
快適な生活環境を実現
機能的な設計
建材と構造
使用されている建材は昭和初期の質の高い素材です。
梁、柱、建具などに多くの外材(米栂、米松、米杉など海外の材料)が使用されており、国際交流がなされていました。また、各部分ごとに材質が使い分けられており、強度と美しさを今に伝えています。
入母屋造の屋根には、淡路産の瓦が使用され、丁寧に葺かれています。
外壁・内壁には、土や漆喰が用いられ、調湿性に優れた伝統的な材料です。
障子、襖、格子戸、欄間など、木製の伝統的な建具が残されています。
構造的特徴としては、
- 木造2階建で、界壁は、床下から天井裏迄壁で区切られた構造となっています。
- 各戸の後には、坪庭があり、2階の後には、物干し場がつくられ、日光と通風を確保しております。そして、それは、洗濯物が街路から見えないようになっており、景観にも配慮されています。
- 1階は、玄関の間があり、簡単な接客場となります。そして茶の間を中心に、台所と風呂場があり、奥は寝室となっています。そして、側面に廊下を設けることによって、寝室の独立性を保ち、2階からもこの廊下を通って便所に行くことができるように寝室のプライバシーを守られています。
- 2階は、8畳と6畳の間があり、8畳の間には、床の間、違い棚が設けられております。2階は、通常、子供部屋として使われていました。
- 平入で各戸は、独立しており、各戸の素戸を開くと1坪ほどの前庭があり、そして玄関があります。玄関の戸を開くと、玄関の間があり、ここで、下足を脱ぎます。
- 裏側に「汲み取り道」による動線があります。 これは、大阪独自のもので、便所は、家の奥にあり、当時は、汲み取り便所だったので、糞尿を桶に居れ、天秤棒でかついで運び出す通路が問題になります。 大阪の場合、建物は、敷地境界から1尺5寸(約45cm)離すことになっていたので、隣にも建物があった場合、両方で3尺(90cm)の通路ができます。 これが汲み取り道として活用されました。このことは、建物のプランを考えるうえで大きな問題で、この通路がないと表の街路から便所までの通路を建物内に確保しなければなりません。そのために通り庭という土間の通路が必要でプランが制約されることになります。
この地域は、1924年(大正13年)から始まった阪南土地区画整理事業の区域内にあります。そして、1930年(昭和5年)には、区画整理事業が完成し、その後に寺西家長屋が、建てられました。 区画整理事業なので、上下水道設備や電気設備は、当然のことながら整備されたが、特筆すべきことは、都市ガスが布設されたことだろう。このことにより、台所でガスコンロが使えたほか、ガス風呂まで設置されていた。庶民の多くがお風呂屋に通っていた時代に各戸に風呂があるだけでなく、ガス風呂というのは、先進的な地域であったいえます。
寺西家阿倍野長屋の建材と構造は、 昭和初期の大阪の建築職人たちが、最高水準の技術と知識を投入して実現した作品です。 約90年経過した今も、その構造の堅牢性と美しさが保たれていることは、当時の職人技の高さを物語っています。
寺西家住宅(母屋)との関係
通りを挟んで向かい合う母屋(右)と長屋(左)
向かい合う「邸宅」と「長屋」
寺西家長屋(1932年築)は、通りを挟んで向かい側に建つ母屋「寺西家住宅」(1926年築)と対をなす存在です。
母屋は「地域の格式」を示す邸宅として、長屋は「地域の暮らし」を支える貸家として。 この二つの建物がセットで保存されたことで、昭和初期の大阪の街区景観が、断片ではなく「まちなみ」として立体的に残されています。
| 母屋(寺西家住宅) | 長屋(本物件) | |
|---|---|---|
| 建設年 | 1926年(大正15年) | 1932年(昭和7年) |
| 役割 | 寺西家の自邸 (地域の象徴) |
賃貸住宅 (庶民の暮らし) |
| 構造 | 木造2階建 戸建 洋式応接室あり |
木造2階建 4戸連棟 防火壁・入母屋造 |
| 関係性 |
同一の所有者により管理され、 街区全体の「品格」と「賑わい」を両立 |
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歴史的連続性
大正末期から昭和初期にかけて形成された「阪南土地区画整理事業」の歴史を、2つの建物が今に伝えています。
景観のセット保存
点としての保存ではなく、通りの両側が保存された「面」としての景観価値が高く評価されています。
社会の多様性
「邸宅」と「長屋」が共存する風景は、多様な階層の人々が共に暮らした大阪の都市社会の縮図です。
文化財としての連携
母屋と長屋、双方が国の登録有形文化財となり、一体となって地域の文化発信拠点となっています。
寺西家住宅(母屋)と長屋の双方が保全された事例は、
近代建築保存の重要事例として、学術的にも高く評価されています。
都市環境デザイン会議の「都市の鍼治療」データベースでは、
「単なる長屋の転用事例にとどまらず、大阪の建築文化を再構築する試みとして意欲的である」
と紹介され、母屋と長屋を一体で保存活用することの社会的意義が強調されています。